田村隆二の記録

考えたことや思いついたことを気まぐれで書きます

家族とは

 

 

 

うちの元父親は稼いだ金を全て自分の娯楽に使い、育児及び家庭を放棄、いわゆる経済的DVをしていた。


小さい頃から家では両親の怒鳴り合う声を聞き、僕にとって"家庭"は心休まる場所どころか、窮屈で居心地の悪い、嫌悪と憎しみにまみれた空間だった。

 

 

当時の僕はとにかくこの家から、両親から、逃げ出したかった。


でも力のない子供にはただその状況を、口をつぐんで我慢する他ない。

 

 

 

僕が小学校高学年になる頃には父親とは事実上の別居状態になり、それでも母は世間体を気にして子が成人するまで籍は残すとしたが、その後も色々あり見兼ねた当時中学生の僕が、母に「もう離婚しなよ」と言い、

結果離婚することに。

 

 

 

 

 

 

今、離婚後の共同親権を導入する民法改正がされそうになっています。

これは実質的な離婚禁止であり、DVやモラハラなどの加害により離婚し別居した場合でも、別居親の許可がなければ子供の進学や引っ越しも出来なくなる上に、DVモラハラ加害者に住所を知られてしまう等、様々な危険性を孕んでいます。

可決されれば今後、確実に死人が出ます。

その他、毒親や宗教二世など、親に苦しむ子供が数多く存在する中、そう言った問題に対する明確な対策もないままに異例の速さで法案が成立しようとしている。

審議が長引けば、国民に広く周知され、その結果炎上することは明白だからだ。

これを阻止しなければ。

 

 

 

 

共同親権推進派からは、

「離婚後も父母が子との関わりを継続することが子の健全な生育につながる」て意見があるようだが、離婚後も父母の関係が良好な場合ならともかく、DVやモラハラといった問題を起こすような人間との関わりは子の健全な生育に多大なる悪影響を及ぼすに決まってるんですよ

 

それでなくても両親の不和が子供にどれだけのストレスを与えるか。

自分が満足・納得できれば良い、子供は自分の所有物、みたいに考えていて、子供の声なんて聞いちゃいないんだ。

 

 

 

離婚後共同親権が導入されて喜ぶのは面会交流を禁止され、子から引き離されたDV等の加害者だけだ。
子が離婚後別居した父母との面会を求めるケースもあるだろうが、それと共同親権とは関係が無く、共同親権はあくまで父母の平等化ってだけで、そこに子の意思は不在なんだよね。

 

この場合の平等なんてのも名ばかりのものだし。

 

 

 

DVをするような人は大声で怒鳴って相手を従わせようとする。
恐怖でNOと言えない被害者がいるからこそ、それに代わって国がしっかりNOを突きつけるべきであって、被害者を守るべきはずの国が、声がでかい加害者側の言いなりになって結果被害者が苦しむ羽目になるなんてことはあってはならない。

 

 

 

 

 

僕は結婚や育児によって生じた不幸を間近で見続けてきたので、個人的に結婚や子作りには希望が持てず、しないつもりでいるんですよね。


一概には言えないけど、僕みたいなのが増えれば少子化はさらに加速するんじゃないかな。


現に反出生主義なんてよく聞くし、僕もそれを主張はしないが共感はするし。

 

 

 

あとは、

結婚せず子を産まずに日本で生きるか、
海外へ出て家庭を築くか、

みたいな極端な話になりかねないと思うな。

どのみち今のままでは日本に未来は無い。

 

 

 

今まさに少子化対策をするべきだという時に、全く逆効果な法改正をしようとしている。

なぜだ。

 

 

 

国は長期的な日本人滅亡計画でも進めてんのか?それならそうと言ってくれれば。


でも、違うな。都度目先の利益や誤魔化し、身勝手な暴論のためにしたことの結果、破滅するだけだ。

 


いや、自滅か

 

 

 

 

 

 

これはまた別だけど、


たまに「兄弟はいる?」って聞かれるけど、
いないです。


ただ戸籍上はいます。
が、およそ10年前に絶縁したので実質いないようなものです。


なので、「いない」と答えてます。

 

 

 

 

 

家族の定義を測ることは難しいですが、少なくとも血縁や書類上で決定するものでは無いと考えてます。


親子にしろ兄弟にしろ、他人です。(そもそも夫婦には血の繋がりは無いし)


冷たく聞こえるかもしれませんが、
それが大前提で、
その上での人間関係です。

 

友人や恋人関係とそう変わりはありません。

もちろん、家族という肩書きを大切に思うことは大変結構です。

しかし、囚われる必要はありません。

執着する必要も無い。

 

人は皆孤独であり、まずはそれを受け入れることです。

 

なんにせよ、

肩書きがどうあれ、
尊重し合い、侵害しないことが大切です。

 

 

 

 

上記でいう"家族"は、法律上での家族の定義は除外しています。

そうではなく、精神的、哲学的な、個人の認識するところにおいての"家族"を指してます。

そこにはある一定の信頼と、尊敬があるはずです。

 

 

 

少なくとも、
"家族"というのはプライバシーを侵害してもいいという免罪符ではありません。

 

 

 

 

先にも述べた通り、家族であろうと他人です。

 


そして、他人と真に理解し合うことはほぼ不可能に近いです。
人の心の中までは見えないので。

 


だからこそ、なるべく理解し合えるように歩み寄ること、その姿勢が大事なんじゃないかな。


だからこそ、そういう姿勢のない者とは距離を取る必要があります。

 


それがたとえ、家族であろうとも。

 

 

 

 

 

あとは、各家庭ごとに様々な事情があるので、世間一般の家庭像や家族の絆的な綺麗事を人に押し付けてはいけないね。

(そういう理想に憧れたこともありますが)

 

それが人を傷つけることもあるということは知っておいた方がいいね。

 


とにかく、他人なので、干渉しすぎるべきではないですね。

 

 

 

と個人的には考えます。

 

 

 

「私はそう思わないよ」て言う人がいてもそれは当然のことです。

人間の考えは人それぞれです。

合う合わないはあります。

 

自分と異なる考えを知ることも大切です。

そういう方達と対話をすることで互いに考えを深め合うこともまた必要だと思います。

 

しかし、対話の望めない相手というのは少なからず存在するわけで、

 

そういった、マジで合わない人とは適切に距離を取ればいいのです。

 

しかし法によって距離を取ることも難しくなってしまうというのでは、もはや人権の侵害となんら変わりません。

 


それは、決してあってはならないことです。

 

 

 

共同親権衆議院で可決されましたが、まだ参議院があります。
インボイスの署名無視という前例がある以上、日本の国民不在の政治体制に絶望を感じずにはいられませんが、とはいえやれることはやりたい。それに、過去に署名で変わったことも中にはあります。なので、せめて署名だけでも。

 

 

 

 

ここまで書いていて思うのは、自分はどこか心が死んでるんじゃないか、と。


愛なのか、情なのか、倫理か、はたまた、


何か人として大事な部分が欠けているような、そんな気がする。


完璧な人間はいないという前提を踏まえれば、それも杞憂かな、

 

はたして、

 

 

 

 

とにかく、より良い社会にしていきたい。

 

当然、戦争なんて絶対に許さない。

是が非でも抵抗してやる。

 

何のための歴史だ。

太平洋戦争から一体何を学んだんだ。

 

 

もちろん、外交は大切だが、従属国になってはいけない。

敗戦国ではあるが、一国家として対等な立場を築いてゆかなければ。

その為に我々ができることの一つに選挙がある。

 

 

政治についてよく学び、

様々な問題に目を向け、

自分なりに考え、その上で意見を持ち、

そして、行動しなくては。

 

 

僕もまだまだ勉強不足ですので、是非みなさん共に学び高めあいましょう。

 

 

 

 

僕は、無知な奴隷ではいたくない。


当事者であることを忘れるなかれ。

 

 

 

怒れ国民よ

 

 

 

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フィルムを現像してきたんだ。

 

フィルムを現像してきたんだ。

去年一眼で撮ったやつと、あと、今年撮った写るんです。

 

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写真を撮るような時ってのは大体楽しい時とか、綺麗だなんだとか思ったりした時だろう。

だけど現像してさ、忘れた頃に見返すと、全部が全部いい想い出とも限らないんだな、これが。

 

僕はいつも1人でいるからさ、写真といっても大抵は風景とか建物とか、そういうのばかりなんだ。

でも時々誰かと一緒になったりなんかすると、撮ったり撮られたり、一緒に映ったりもするんだ。

ほんとだぜ。

 

でもその写真が現像される頃にはもう、その人はいないんだ。

 

いつもそうなんだ。

誰かと一緒に写真を撮っても、その写真をその人と一緒に見た試しがないね。

その時にはもういないんだから。

写真屋から帰ってさ、現像した写真を1人で見るたんびに気が滅入っちゃうんだ。

「ああ、またか。」ってね。

 

実際、人と写真を撮るときなんかには頭をよぎるんだぜ、「このフィルムがいっぱいになる頃にはこの人、いないんじゃないか。」ってさ。

でもそんな時は決まって何かに酔っちまってんだな。

「そんなことはない。今度こそ、きっと。」

そんなふうに考えちゃうんだ。

笑っちゃうだろ。

学ばないんだよ、こいつ。

自分に学がないのは承知してるけど、それでもやっぱり参っちゃうな。

 

これは持論なんだけど、

「ロマンチストは愛されない」

と、こう思うんだ、僕は。

 

でも、本当だと思うぜ。

 

実際、人に愛されるってのはすごく難しいことなんだよ。

いや、もっと言うと、愛され続けることが、かな。

そういうのって、とても高等な世界だと思うな。

特にロマンチストなんかには到底及ばないところにあるね。

現実主義者でなけりゃいけないよ。

 

ここでいう現実主義ってのはなにも、収入がいくらか、とか、学歴はどの程度か、とか、そんなくだんない話のことじゃないんだぜ。

まぁ、そういう藁を握りしめていい気になってるかあいそうな連中も少なくないんだろうけどさ。

 

でも僕が言いたいのは、人とのコミュニケーションがどれだけ上手にできるかってことなんだ。

相手がこういう時にはこういう接し方で、こういうことを言う。または言わない。とか、正義を殺したり、悪を許したり、

知識と経験が必要なんだ。

そういう意味ではやっぱり、学は必要だと思うな。学歴なんてどうでもいいけどさ。

 

…正義と悪のくだりは無かったことにするよ。

そういうところがロマンチストだっていうんだな。もちろん、悪い意味でね。

 

なにより人との関わり合いだよ。

現実的な人間関係の中でこそ培われる"能力"なんだな。"技術"といった方がいい。

実践の中で会得していくものなんだ。

僕には、ないんだけどさ。

 

逃げてきたからね、

人との関わり合いから。

 

現実主義者は冷静に人間関係ってものを捉えて、知識と技術で攻略していくのに対して、

ロマンチストは、愛とか、そういうものにひれ伏してる所があるんだな。

崇拝しちまってるんだよ。

何か、絶対的な何かだと思い込んで仕方がないんだ。

愛は普遍だ。絶対だ。とか言ってね。

だから、緻密な人間関係のプロセスなんかをすっ飛ばして、"愛"ってやつを掲げて突っ走るんだけど、もちろんちゃんとした場所になんて辿り着けないんだな。

蜃気楼に惑わされる砂漠の旅人とか、風車に向かうドン・キホーテみたいなものだよ。

 

彼らも時々冷静になるんだけど、そん時にはもう手遅れ。気付いた時には知らない場所でひとりぼっちさ。

傷だらけで泣いてんだぜ。自業自得のくせしてさ。

哀れなものだよ、まったく。

本当にかあいそうなのはどっちだ、って話さ。

 

それでもまだ"愛"を信じて疑わないんだから驚きだよ。

今度こそは、本当の愛を。なんて言って探し彷徨うんだ。

ゾンビさながらだよ。恐ろしいね。

 

なんだか話がだいぶ逸れたみたいだ。

結論とか、そんなのはないんだけどさ、別に。

ただやっぱり、人間関係は大事だと思うな。

"人と関わる" ってことがね。

 

それを分かっていながら、孤独を愛しちゃってるんだな、こいつ。

孤独は僕を裏切らないからね。

どうやら、傷つくことが怖いらしい。

情けない奴。

 

はて、さて、こんなことで、どう生きていくんだろうな、こいつは。

 

先のことは分からないけどね。

でも一つ、分かることがあるんだ。

それは、

 

こいつはきっとまた、誰かと一緒に写真を撮る。

 

ってこと。

 

 

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カメラを向けられてもピースしかレパートリーがない男の独り言

 

 

2023.8.29

田村隆二

居場所

こないだ1年ぶりに友達に会って色々話してて思った。

やっぱりみんな寂しいし、心休まる居場所が欲しいんだ。

 

でも家や仕事場には見出せず、行き場を無くした僕らは、心の内側で泣くしかない。
声を顰めて、誰にも気付かれないように。

 

 

孤独

 

 

人を、心いっぱいに愛したいし、また、愛されたい。
だけど人と関わるのは複雑で、なかなかうまくゆかず、傷つけたり、傷ついたり、そればかり。

傷つくのが怖いから、心を閉ざし、他人を遠ざけ、目を背ける。
立ち向かうことから逃げて、また1人きりになる。

 

 

もちろん逃げても良いんだ。

辛いなら逃げたっていい。

しかし、人生というのは人との関わり合いでほとんどができている。

だからどれだけ逃げようとも結局、この世のどこにも逃げ場所なんてなくて、逃げきることなどできやしない。

生きている限り、人間関係に終わりはないんだ。

 

 

 

生きること。それ自体困難で、人生に立ち向かっていくのはとても怖い。
勇気がいる。

 

でも、簡単にクリアできてしまうイージーモードなゲームがつまらないのと同じで、ハードな困難があるからこそ人生は面白いし、より輝くのだと思う。

 

楽に生きることはできないし、楽に死ぬこともできないのならば、せめて、

せめてそう思いたい。

 

 

だから結局は、やるしかない。

としか言いようがない。

 


生きるなら、やるしかない。

 

 

 


立ち向かうか、立ち止まるか、

 

 

さぁ
どうする。

 

 

 

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2023.2.6

一人暮らし1年目、年明けから無職に〜

 

一人暮らしを始めて約1年が経った

 

 

とにかく1人が楽で快適


もう他人との生活には戻れないし、ますます結婚なんてできない


このまま死ぬまで1人が良い


とはいえ日々は自分のお世話で手一杯
それでも不自由なりに自由にやれてるから、幸せかどうかで言えば結構幸せ


まぁ頑張り次第と気の持ちよう、
かな。

 

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今のところ人生で今が1番良い。

 

 

もちろん過去の後悔なんていくらでもあるけど、悔いの残らない人生なんて無いと思ってる。その上で、なるべくやり残しの無いように生きていくことが大切なんじゃないかな。と思う。

 

 

死ぬまでにやってみたいこと、行きたい場所、会いたい人、

大体こういうのは後回しにしがちだけど、生活との折り合いをつけながら、なるべく早く実行して、潰していかなければ。

 

 

でなければ、何もできないまま、悔いばかり残して死んでしまう。

 

 

「あれができなかった、けど、あれはできたし、これもできた。だから、まぁ良いか。」と思って死にたい。

 

 

 


やりたいことやるためには、まず生命は維持しなきゃいけないし、

そのためには食事と睡眠が必要で、

食べものと寝床の確保には大体はお金が必要で、そのためにはお仕事しなきゃいけないし、

となると今すぐ全部投げ出してやりたい放題やるわけにはいかないと思うし、

 

人によっては老後の心配とかもあるだろうけど、そもそもそれまで生きてる保証なんてないし、

生きてる以上は必ず死ぬわけだし、

明日死ぬかもしれないし、

もちろん、100まで生きてるかもしれないし。

 

仮に老後があったとしても、老いさらばえた身体では、若い頃のようには動かないだろうし、

 

個人的にそこまで長く生きたいとも思わない。

今のところ理想の享年は長くても50くらい。

 

 

それまでにやりたいことをやるのだ。

 

だから今は生きるのだ。

 

 

 


「始めるのに遅いなんてことはない」

ていうのもわかるけど、それは始めたいと思った人のための言葉であって、始めないための言い訳ではない。

 

 


まぁ、先のことはわからないけど、

生活とか将来とか、

その辺のバランスを取りながら、

少しずつでも、死の事前準備はしていかなければ。と、20を超えたあたりから思い続けてる。

 

というか訴えかけている。自分に。

 

 

 

 


そんなわけで、3年勤めた会社を年内で退職します。

 

年明けから晴れて無職です。

 

 

 

 

人間的には今までで1番良い職場だったけど、別に働く為に生きてるわけじゃないし、

週5の1日8〜10時間勤務でサラリーを得ても、やりたいことをやりきれない今の暮らしの中では、生きる意味を見出せない。

 

生活する為に生きてるわけでもないし。

 

 

でも死ぬまでにやりたいことはたくさんあるから、

だったら生活が苦しくなっても、路頭に迷う一歩手前くらいまではやりたいことやろうと思うのです。

 

 

 

まぁなんとかなるでしょう。

ならなかったらそれまで。

 

 

 


そのうちまたどっかで働くと思うけど、

それまではずっと漫画描きます。

出版社に持ち込んだり、同人即売会に出店したりするつもりです。

ブログ?とかにも載せたりしたい。

 

大体そんな感じです。

 

死ぬまで生きるぞ!!

 

命って大切だと思うんです
だけど、それがなぜなのかよくわからない

 

例えば、家に蚊やハエが出たら、僕も含め大抵の人が叩くか殺虫剤かけるかして殺すと思うんですよ
何の罪悪感も無く、平気で
でも蚊やハエも命じゃん

もっと言えば、草花の上を平気で踏み歩くんですよ僕らは
切ったり燃やしたり
でも草や花や木だって命じゃん

 

じゃあ仮に、蝶々を殺したとしよう。
するとそれを見た多くの人は「ひどい」「可哀想」と言うと思うんです。(データとかは無いけど)
犬や猫なら尚更だ
でも手に余る分は殺すんだ
同じ命なのに

 

人間を殺しちゃいけない?
戦争になったらたくさん殺すんだ
殺されない為に
どういうこと?
常識なんてその時々で簡単にひっくり返る
当てにできない

 

確かに蚊に関しては、1番人間を殺してる生き物ではある
しかし「だから殺しても良い」と言うのであれば、人間は牛や豚や鶏、犬や猫や草木、虫や魚たくさんの生き物を殺してきたから、「だから彼らは人間を殺しても良い」と言えるか?
まぁそれができないから家畜やペットや資源にされてるんだけど、

 

じゃあ牛や豚や鶏、魚や野菜、
「食材に感謝をしましょう」と言うけれど、感謝をすれば許されるのか?
僕ら日本人は「いただきます」と言うけれど、ほとんどの場合マナーのためであって、本当に心から食材に感謝を込めて言えている人なんてそう多くはないはずだ

 

弱肉強食ってこと?
強ければ命も重い?
強ければ他者を殺しても良いの?
生きる上で必要な命だけをいただくのであって、むやみやたらに殺生して良いわけではない?
人間は自分らの生き心地の良いように色んな命を犠牲にしてきたけど、生きる為だから許される?生きる上で必要って、どこまで?

 

こういうこと、誤魔化してるんだ人間は
「命はとても尊いものです。大事にしましょう」と教えられてきたけど、
言ってることとやってることが違うじゃないか
みんな虫を殺すし、草を踏むじゃないか
おかしいよ

 

命に重さなんてないけれど、
もしあるとすればそれはきっと平等なはずなんだ
みんな産まれて、生きて、そして必ず最期はみんな死ぬ
不老不死と言われる生き物達、例えばベニクラゲはデリケートで、少しの水温の変化によって死んでしまうし、クマムシだって叩けば死ぬ
みんなちゃんと死ぬんだ

 

連続する出来事の多さ、一生の長さに違いはあれど、生と死に優越はないはず
命はみんな平等なんだ、きっと
でも誰かにとってどうか、ってのが違うんだと思う
扱われ方というか、
人間にとって犬や猫は可愛い、尊い
でも蚊やハエは気持ち悪い、煩わしい。
とか、

 

結局全部都合がいいかどうか、気持ちがいいかどうかなんだ
そこにあって都合のいい、気持ちのいい命は大切にするし、都合の悪い、気持ちの悪い命なら粗末にする

 

命がどうとか、平等だ不平等だなんてのも全部、最初からあったものじゃ無くて、神様とおんなじで、人間が創り出したものなんだ
全てが人間都合のまやかしなんだ
もうわけがわからない

 

こんなわけのわからないまま命なんて預かれない
ペットは飼えないし、子供も作れない
人を愛せない

 

そう言いながら結局僕は、朝起きたら米や卵なんかを食べるんだ
ろくに感謝もせず、何も考えず
なんてことはない、ただ日々を生きるんだ
死ぬまでずっと
愚かで醜い人間だと思う
2度と人間には生まれたくない

 

と、思うときもある
決して病んでるわけじゃない

 

考えすぎは良くない
どう感じたかってことも結構大事
赤ちゃんって可愛いし、人の不幸を見るのは辛いし、
愛はとても素晴らしいと思う
それが全てかもしれない

 

答えなんて最初からない
まず意味なんてないもの
はじまりがあって、空間があって、物があって、出来事があって、終わりがある、その繰り返し
ただそれだけなんだ
そこに良いも悪いもクソもへったくれもありゃしもないんだ
考えたって仕方がない

 

けど、考えないのはやっぱり良くない

 

まぁよくわかんないけど、産まれて、生きてるんだし、すなわち死ぬってことだけど、それまでの間、面白そうなもの見つけて、やりたいことをやって、楽しめたなら、それで良いんじゃない?
意味なんて元々ないんだから、自分で見つければいい
それをできるのが、人間なんだから

 

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『OZAKI30 尾崎豊展』に行ってきた

 

尾崎豊の没後30年目、

一つの区切りとし松屋銀座で開催された『OZAKI30 LAST STAGE 尾崎豊展』に行ってきた

 

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東京をはじめ、普段滅多に都会という場所に出向かない僕ですが、このイベント開催を知った時は「行かねば」と、半ば使命感混じりの決意のようなものが生まれた。

 

 

 

尾崎豊に会いたい

会いに行かなければ

 

 

 

ちょうど横浜に行く予定があったので、タイミング良く銀座に立ち寄ることができた。

 

 

車で行くことにする。電車は苦手だ。

 

電車の中って、心は分厚い壁で阻まれている赤の他人同士なのに、物理的な距離だけは近い。それが、僕にはとても異様な空間に思える。

スクランブル交差点とかの人混みにも同じことが言えるが、電車がそれらと違うのは、拘束状態にあるということだ。 

どこにも逃げ場がない。壁に挟まれ、人に挟まれ

とても息が詰まる。

だから僕は電車が苦手だ。

 

ということで、車で行くことにする。🚗💨

driving!

 

 

 

首都高速中央環状線に入るあたりの傾斜を上ると、目の前に横たわる東京の街。

色んな形のビルがみんな同じような顔をしてじっとしている。でも内心どこか焦っているような。

こんな大きなものを、人間が作ったなんて、とても信じられない。それもこんなにたくさん。

この中に大勢の人がいて、その一人一人に人生がある。

すごいなぁ。とっても重そう。

 

でも、その重みを受けるには、この街は少し狭いのかも知れない。今に抱えきれなくなって、ボタボタとこぼれ落ちてきそうだ。

 

 

10代後半の頃は当時組んでたバンドのライブなんかでちょくちょく東京へは来ていたものだが、何だかとても遠い記憶のように感じる。

きっと、それが過去であるということを心がちゃんと受け入れきっている証拠なのだろうと思う。

それが「現実を生きる」ということかもしれない。

 

夢の中はとても魅力的だけど、現実がなければ夢はなし得ない。

 

月は、太陽がなければ輝かないんだ。

 

 

 

 

銀座に着いた。

子綺麗にしているし、お金もある。

でも、何だかどこか余裕がない。

そんな街だ。

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松屋銀座の8Fイベントスクエア

 

1,500円の当日券を券売機で買い、いざ中へ。

 

 

 

 

 

「I LOVE YOU」から始まり、時系列を追うように展示された遺作や遺品の数々。

 

 

 

尾崎豊がいる

 

確かにここにいるんだ

 

 

 

そう思った。

 

すると自然と涙が込み上げた。

ただ、まだ入ったばかりで観たいものがたくさん残っている。ここで目をやられるわけにはいかないので、少し許し、少し堪えた。

 

 

 

新宿ルイード

アトミック・カフェ

大阪球場

ニューヨーク、

逮捕、起訴、

結婚、出産、

BIRTH TOUR

代々木オリンピックプール…

 

 

 

 

 

尾崎豊という人間を、彼の生きた人生を、その時の流れを見ているような、

そんな体験だった。

 

彼の書いた生の文字や、使っていた机、ピアノや、着ていた衣装、

 

それらを実際に生で、それもあんなに近くで見ることができる日が来るなんて、それが嬉しくて、

一方で、「ああ、もう彼はいないんだな」と、

そういう実感が強くなって、

なんだか余計に遠く感じて、

それがとても切なくて、

 

やっぱり、何度か泣いた

 

 

 

 

 

 

僕が生まれた1999年には既に、彼はこの世にいなかった。

 

僕が14歳の頃、「15の夜」で初めて彼の音楽に触れた。

 

 

思春期の僕は、いつも何かに夢を見て、

それでいていつも悩んだり、イライラしていた。

 

 

 

どうして勉強をしなくちゃいけないの?

どうして学校に行かなきゃいけないの?

どうして大人達は僕達を縛り付けるの?

どうしてわかってくれないの?

どうして僕は生まれてきたの

どうして人は生きるの

 

 

 

どうして答えてくれないの

 

 

 

 

 

 

そんなことばかりを考えていた。

 

 

そんな僕の悩みや不安、迷い、怒りや苛立ち、悲しみや苦しみ、夢や希望、愛や憎しみ、自由、孤独、人生、

 

 

尾崎は、それらに対する答えではなく、

その答えは、求め、探し続けるものだと、

そして、その術を、

歌や、その生き様をもって教えてくれた。

 

 

 

若さは時に脆く、何もかも崩れそうな時がある。

そんな時に尾崎はいつも、道を示し、先導してくれた。

 

彼は、どんな困難も跳ね除ける強く逞しい男ではなかったと思う。

でも、彼自身、迷い、悩み苦しんでいたからこそ、心から信じることができた。

共に探し求めてくれている気がした。

 

 

 

 

 

高校生の頃の僕は馴れ合いを嫌い、確かな夢と、僅かな愛の力だけを信じていた。

だから、友達はあまりいなかった。

いつもピリピリとしていた。

何もかもうまくいかないような気がしていたんだ。

 

不安だった

そして、それを隠すために尖ってみせた

 

そのせいで、イライラしていた。

子供だったんだ。

 

 

だから、いつもイヤホンで耳を塞ぎ、尾崎豊ブルーハーツビートルズローリングストーンズなんかを聴いていたんだ。

 

そうしていないと、壊れてしまいそうだから。

 

 

 

 

そんなある日、クラスメイトにこんなことを言われたことがある。

「田村君は、どうしていつも怒っているの?」

それを言われた時は、

「ああ、そう見えているのか」

と、ほんの少しハッとしただけだった。

 

 

 

しかし後日、尾崎豊のライブ映像を見ていると、MCで彼は高校時代のエピソードを話していた。

 

 

「教室の席に座り、いつものようにWALKMAN浜田省吾とかを聴いていると、1人の少年が近づいてきて、こう言ったんだ

『ねぇねぇ尾崎君、何でそんなに怒ってるの?』

だから俺は言ってやったんだ

『これがrock 'n' rollだ!!!』」

 

 

鳥肌がたった

まるで自分の事のようだった

 

この頃から、尾崎豊に自分を重ねるようになっていった。

 

 

 

高校を2年で辞めた。

 

彼のように18歳でデビューするのが夢だった。

 

しかし、時間はあっという間に流れ、気がつけば19歳。

 

『10代』に対するこだわりがとても強くなっていた。

失うのが怖かった。大人になりたくなかった。

 

それでも時間は待ってはくれない。

 

 

 

現在22歳。

 

 

 

今では「大人になりたくない」と思わなくなった。

子供のままでは守れないものがあることを知ったからだ。

 

それに、真実から目を背けてはいけない。

そういうことを彼に教わった

 

 

 

14歳だったあの日から、22歳の今日まで、

尾崎豊は、僕の中でずっと輝き続けている。

 

漫画や映画等の作品、役者やミュージシャン等の著名人、

そういうものに対して、ここまで熱狂し、それが冷めずに続き、いわゆる"ファン"になったのは、

尾崎豊が初めてだ。

 

 

彼は最高のアーティストだ。

 

 

 

彼の死後に生まれた僕は、

彼のライブに行くことはできない。

生きた彼には会えない。

 

しかし、"生きていた彼を"見ることはできる。

尾崎豊はいたんだ。

そう感じることができる。

 

 

僕は今まで、やはり尾崎を教祖とし、信仰する信者の様なものだったかもしれない。

 

しかし、彼も普通の人間だ。

もちろん、音楽や詩に関して秀でた才能がある。そういう意味では特別だと思う。

 

しかし、彼も僕らと同じように、

この世に生まれ、ご飯を食べて、眠り、成長し、愛し愛され、笑ったり、悩んだり、喜んだり、悲しんだりする、

何ら変わらない普通の人間だ。

 

今回の展示を見て、少しそう思った。

 

 

 

2年前の『尾崎豊を探して』も然り、

今回の『OZAKI30』にしても、

今一度、"尾崎豊"と改めて向き合う。

そのためのきっかけになるし、

 

僕のように

尾崎豊を知らない世代のクラクション」

にとって、こういった尾崎豊に関するイベントは、大々的に彼に触れられる数少ない機会で、とても貴重だ。

 

もちろん、生きている彼のライブに行けるのなら

どんなに素敵だろうか。

 

それでも僕は、

ないものをねだるより、あるものに感謝したい。

 

 

今回、『OZAKI30』を開催してくださった関係者の方々には本当に感謝しています。

ありがとうございます。

 

 

そして何より、

尾崎豊に、

心から感謝しています。

本当にありがとう。

 

 

 

彼は僕の憧れだ

しかし、僕は尾崎豊にはなれない

 

ならなくていいんだ

 

僕は僕だ

 

そのためには、勝ち続けなきゃならない。

正しいものは何なのか

それがこの胸に分かるまで

 

僕が僕であるために

 

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P.S

横浜での仕事を済ませた後、近くにあったバーガーショップに駆け込んでポテトをコーラで流し込んだ

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